所感(書いてみて)
テーマ【書いてみて思ったこと】
1年以上このブログを続けてきて、 毎度書きながら、"自分自身の考えがよくわからない"という気持ちと向き合っている。たしかに"こんなようなことを書きたい"という思いがあって書き始めたはずなのに、 明確に言語化していく中で、全く繋がりのないエピソードが出てきたり、明らかな矛盾があったり、気付くと違う話をしていたりして、何が言いたかったんだっけ?と一人で迷い込むことがある。自覚としてはガチガチの理系脳なので、論理には自信があったのだが、蓋を開けてみると、案外抽象的に物事を捉えていたことに気付かされる。ふわっとした意見から、 比較的はっきりとしたものを見つけ出し、それをひとつの記事にどうにかまとめてきた。そんな中で最近気付いたのだが、結論は書き始めたときの思いと異なることが多い。
具体的には、例えば前回の記事。元々は"ニュースのさばき方"というタイトルで、「最近情報の取捨選択がうまくなってきたんです」という論を展開しようと思ったのだが、自分の考えと向き合ってみると、そんなことが言いたいのではない気がしてきて、紆余曲折の上できた記事は、ニュースから得られる知識の重要性を語るものだった。後から思うと、元々のぼやっとした気持ちより、結果としてブログに書いたものの方が、自分自身の意見により近いと確信している。こういったことは、実際に書いてみないとわからない。
何が言いたいかというと、"経験"でも" 学習"でも、インプットだけでは、意外と自分のものになっていない。アウトプットすることで、深いところに落とし込めるということがあると思う。中高生のときによく言われた、"誰かに教えてあげると、相手以上に自分自身の勉強になるよ"というやつに似てる。このブログでは方程式も歴史年号も取り扱う機会は少ないが、"なんとなく思ったこと"や"ぼんやりと感じたこと"を、一つずつ、自分のものにしていきたい。
2019.02.17 T.N.
中西哲生さん
テーマ【講演】
とあるカンファレンスに参加した。テーマは「パフォーマンスから考えるサッカー医学」ということで、指導者、ドクター、トレーナーの三者からの講演を聞いた。そのうち指導者として登壇したスポーツジャーナリストの中西哲生さんから得たことを書こうと思う。
サンデーモーニング等、サッカー解説者として知られる中西哲生さんには指導者の一面もあり、2010年からプロサッカー選手のパーソナルコーチをしている。長友佑都からパーソナルコーチをスタートして、次に永里優季、次に久保建英を小6から教えていて、最近はピピこと中井卓大にも指導をしているそうである。パーソナルトレーニングは、基本的にマンツーマンで、選手各々に対してオーダーメイドで、個人が最大限の力を発揮することにフォーカスしている。ジャーナリストということもあってか、中西さんの指導におけるテーマは「言語化」で、論理的になれば再現性が高まるということをおっしゃっていた。言語化については私が最も課題としていることだ。新たな知見や、それをうけて自分の心がどう動いたかを、自分の言葉で残す訓練はこのブログを通じて継続して続けていきたい。
中西さんは指導における言語化の大切さを説いてくれたが、同時に「伝える前にコップを上に向けさせる」ことも強調していた。どれだけ良い水を持っていても、コップが下を向いていて注ぐことができなければ意味がない。逆にコップを上に向けることができれば、どんなことも素直に受け入れ、吸収するようになる。そのために、興味を示してもらう術を考えておかなければならない。中西さんは大学で講義を行なうとき、「ここはテストに出るぞ」というと、どんなに寝ている学生も一気に視線を向けるようになると言っていた。そこまで効果的なマジックワードは日常ではそう簡単に見つかるものではないが、自分なりのキーワードは持っておいたほうがいいかもしれない。
中西哲生さんは元サッカー選手で、サッカーがテーマの講演会で、サッカー指導についてのお話をしていたのだが、その内容は他のスポーツはもちろん、仕事や私生活においても共通するもので、かなりタメになった。このように本質的なお話ができる中西さんは、本はサッカー以外のものしか読まないと言っていて、実際にドリブルの姿勢を楽器の演奏者から取り入れた例も講演の中で紹介してくれた。様々な情報を多面的に取り入れていくことについては、先のブログ*1で相方が書いた「つまり日々の小さな知識の積み重ねが、間接的に"使える"知識/技術を修得する際に役立つのではないか。」にも通ずるところであろう。あらゆる物事に対してコップを上に向け、情報という名の水を自分で注ぎ入れる。その水を、なるべくこぼさないように言語化して相手へ渡す。講演をうけて、そんなことを思った。
2019.02.03 T.Y.
ニュースを追う
テーマ【ニュース】
2019.02.01 T.N.
*1:およそどんな知識でも、有用ではないということはないんだ。(「恐怖の谷」より)
今日はなんの日
テーマ【わたしの記念日】
以前、周りの何人かに”明日誕生日宣言”を行ったうえで「明日にはみんな忘れてるからね」と言ったことがある。その場では彼らも気遣って「そんなことないよ」とか言ってくれるのだが、結果は案の定というか、誰ひとりとして覚えていなかった。自分にとって特別なことは、他の大多数にとっては所詮取るに足らないことだということを、これほど肌で実感した日はない。
あるテレビ番組で、大人が1年を短く感じるのは、トキメキがなくなってきているからだとやっていた。そういう意味では、記念日を作っておくのはひとつの手かもしれない。日本記念日協会のHP*1にいけば色々載っているが、せっかくなら自分独自のものを持っているといい。「この味がいいねと君が言ったから七月六日はサラダ記念日」とはよく言ったもの。普通の日を特別な日に変えようとする努力が、人生を充実させるきっかけになるかもしれない。
日付の数字遊びも意外と面白い。1年は365日とそこそこ中途半端だし、月ごとの日数もまちまちなので、なんてことない日が区切りの日にちだと気付いたときには、ひとりでにテンションが上がる。せっかくだからとちょっと調べてみたら、ひとつ驚いたことがある。「10年後の自分へ*2」を書いた日は、なんと自分が生まれてからちょうど10,000日目だったのだ!こんな区切りの日に、将来の自分に向けて書いているなんて、我ながらとんだ奇跡を起こしたものだ。
その10,000日前というのが、紛れもなく28年前の今日である。
2019.01.30 T.Y.
HEROとわたし
テーマ【好きなテレビ番組】
こないだの三連休の話になる。旅行好きの私だが、珍しくどこにも出かけず、代わりにずっとテレビ付けだった。録画していた正月特番はもちろんのこと、キムタク主演のドラマHEROが期間限定で無料視聴できたので、2001年版と2014年版、それと綾瀬はるか出演のスペシャル版とをすべて見た。
HEROの久利生は理想の社会人像である。事件の大小に関係なく向き合う姿勢であったり、気になったことは足を使って自分の目で確かめるやり方というのは非常に影響を受けている。2001年版の第1話で、たかが下着泥棒のためだけに「お出かけ捜査」に行った久利生と、しぶしぶついていく松たか子演じる雨宮。その帰りに久利生が言った「いまこうやって見えてるものよりね、見えないもののほうが多いんだよ(中略)そこまでいかないと見えてこねえんだろうな、きっと」という台詞は印象的である。いまや情報はインターネットで検索すればだいたいのものは出てくるし、メールや電話を使えばだれとでもすぐに繋がることができる。でも自分の足でその場に行って確かめながら、その過程を肌で感じることも大切なような気がする。実際に久利生は見落としがちな事件の本質を「お出かけ捜査」によって見つけていく。
「お出かけ捜査」はわたしも仕事やプライベートで実践しているが、一方で久利生の生き方で私ができていないのは「とことんやりきる」ことである。飯島直子演じる巽江里子が久利生のことを「あいつはふたつのことしか頭にないのよ。検事は被害者の味方、真実を知るためには手を抜かない。相手は誰とか、どこで仕事してるかなんて、あいつにはどうでもいいのよ」と評していた。こういった久利生の姿勢は今の私にはまだ欠けている。そもそも何かひとつのことをやり通すことができるのは、信念というかブレない軸があるからなのだと思う。ふと思い出したのが、植松努著の「NASAより宇宙に近い町工場」の一説「憧れがなければ努力はできない」という言葉。オトナになっても理想や夢を持ち続けるべきなのかもしれない。
一旦テレビにハマってしまうと、続き見たさに抜けられなくなってしまうことを強く実感した。HEROだけでも1時間×11話×2クール+スペシャル版で合計約24時間を費やしたことになるし、他にも年末年始で再放送していたBSの番組が合計10時間くらい。おかげさまで生活がだいぶ不規則になって、食事すらまともにとらなかった。少しは「おでかけ」しても良かったかなと思ったが、これはこれで「とことんやりきった」と前向きに捉えている。
2019.01.23 T.Y.
リロングウェのマーケット
テーマ【リロングウェのマーケット】
今日の花
テーマ【今日の花】
*1:私が手に取ったものとは異なるが、国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧可能なようだ(江戸名所花暦 - 国立国会図書館デジタルコレクション)。ブログに記載した「冬の部」はコマ番号71より始まる
*2:梵刹は寺を指すので、「このお寺」という意味
*3:それが探す必要もないほどはっきりと目の前に飛び出してくる場合を除いて