ふたりブログ

毎回とあるテーマでつづります

テーマ【歯】

 

 社会人になってからはめっきり行かなくなったが、小さい頃からずっと、歯医者に定期的に通っていた。どこか悪かったわけではなく、『定期検診』だ。内容としては、検診というより歯磨き指導と言ったほうが適切かもしれない。毎回必ず、自分の歯ブラシを持って歯医者に行った。

 検診は、まず、謎の赤い液体で口をすすぐところから始まる。どういう仕組みか、これで歯垢に赤く色が付く*1。その後、歯科衛生士のお姉さんに「赤いのが落ちるように歯を磨きましょうね」と手鏡を渡されて、一人診療台の上で歯磨きタイム。しばらく経ったらお姉さんが戻ってきて、残ってしまった赤いところ=歯垢 を、磨き方のレクチャーがてら磨いてもらう。ちなみに、ひとつ歯磨き豆知識を紹介しておくと、奥歯の側面は口を閉じると磨きやすい。口を開けると頬の皮が突っ張って奥歯の側面に歯ブラシを差し込めないからだ。*2閑話休題。赤いところ=歯垢 がなくなってきれいに磨けたら、歯医者のオヤジ(先生)が出てきて、ざくっと検診を開始。たしか毎回「おまえん家の子は問題ねぇよな。うん。問題ねぇ」という感じで終わった気がする。そりゃそうだ。しょっちゅう来てるんだから。最後は全部の歯にフッ素を塗りたくっておしまい。フッ素というのは歯磨き粉などに使われるもので、子供の頃は「歯を強くするお薬」と教えてもらった。

 この歯医者通いは我が家の方針で、兄弟全員がそうだったものだから、自分にとってはごく自然なものだった。そのため、どうやら「歯医者は虫歯になってから行くもの」というのが世間の認識らしいというのに気付いてきたのはいつ頃だったか。たぶん小学校高学年くらいになってようやくじゃないかと思う。

 思い返すと、世間の常識とも照らし合わせて、こんなに通う必要はなかったかなと思う反面、良かったと思うこともある。虫歯ゼロというわかりやすい結果もそうだけど、何よりも『予防に勝る治療なし』という考え方を持てたのは、少なからずこのおかげかなと感じている。親にはよく、「一生使うものだから」と言われていたけれど、歯に限らず身体というのは(当然のことながら)何より大切で、早くにガタが来てしまうとその後の人生がかなり辛くなる。機械のように、壊れたら取り替えればいいというものではないから、健康のためには、日々の生活が重要だ。我が家の、ある意味過剰な投資とも言える歯医者通いのおかげで、ものぐさな自分が、手洗いうがい歯磨き云々等々をやるようになったかと思うと、やたらと多かった「定期健診」の日々も、無駄ではなかったのかもしれない。

 

2018.04.01 T.N.

 

次回はテーマ【幼い頃】

*1:歯垢染色ジェル」というらしい

*2:ひょっとして常識?子供の頃は教えてもらって非常に感動した

文系が語る

テーマ【数学】

 

元々は数学が得意であった。大学の数学科を目指していたくらいである。ただ、それを高校の数学教師に相談したところ、教員以外の進路はないと諭されてしまう。そんな訳はないと思うのだが、当時の自分はそれを真に受けた。悩んだ結果、金融や経済にも数学が大いに活かせるということを知り、大学は文系の道を進むことに。もちろん選択科目で数学を受験して入学した。
実際のところ、数学受験で入学した人は、ほんのひと握りしかいなかった。一方で、大学の講義も人気商売みたいなところがあり、「私の授業では数学を使いません」を売り文句にしている講師が多かった。それでも、ゼミ選びでは計算主体でやっていそうなところを回った。その中で、金融工学を学ぶものに入ったのだが、ここは最も少人数なゼミであったと自負する。1学年で1000人以上在籍しているにもかかわらず、私のゼミにはたったの3人しかいなかったからだ。これは言い訳になってしまうが、通常10~20人で構成されるところ、3人だけではモチベーションを保つのが難しい。結果的に日経新聞を読めるくらいの知識は得られたが、肝心の数学力はさほど磨かれることなく今に至る。振り返ると、高校の時の初心を忘れずにもっと真面目に勉強しておけばよかった。
大学を卒業してからはや5年が経つ。果たしてこれまでに学んだ数学って必要だったのだろうか。工場で生産に関わっていたときは、計算を求められることが多かったかもしれない。それでもせいぜい四則演算を行う程度である。一方で、仕事というのは常に何かの課題に直面していて、その問題を解決し続けていかなければならない。与えられた情報だけを頼りに、ロジックを頭の中で組み立てながら、時にはトライアンドエラーを繰り返しながら最善策を講じていく。それっていうのは、例えば図形の角度を求める方法にも通ずるかもしれない。直線KとLが平行だから、2つの三角形は相似の関係にあるので、ここの角度がMならばNの角度が決まる…と言っているのとそう変わらないように思えてきた。
たしかに数学と違って、世の中には同じ正解がひとつとして存在しない。だが、ひとつの回答を導くプロセスとして、数学的なものの考え方は非常に有用であるに違いない。私が数学から学んだエッセンスはここで言うほど大したものでは全くないが、少しでも実社会に還元されていると願いたい。

 
2018.03.25 T.Y. 

 

次回はテーマ【歯】

卒業

テーマ【卒業】

 

 運動不足を卒業したい。

 学生時代には"体育"という素晴らしい教科があって、若者の健康に一役買っていたけれど、大人になった今では能動的に動かない限り、誰も運動するチャンスを与えてくれない。今のところ至って壮健だが、身体は着実に年をとっている。昔より寝つきも寝起きも悪くなったことや、疲れやすくなったこと、たまに運動すると翌々日に筋肉痛がくることを考えると、運動は必要だと思われる。

 そしてまた、美味しい牡蠣をつくるのが豊かな森であるように、健全な精神を作るのは健全な肉体だ。身体のための身体ではない。人生のための身体だから、健康で、その上できれば、柔靭で強靭で典麗な身体が望ましい。

 今までそうでなかったものを、新しく習慣にするというのは難しい。生活習慣にも慣性が働くという。動いているものを加速させるより、動いていないものを動かすほうが難しい。自然、現状維持の力が働いて、行き着く先はいつもの言い訳である……

 "現状維持摩擦"を超えて、重たいボールを転がし始めるエネルギー。今まで自分は"やるべき"という意識と考えていたが、経験上、どうもそうでない気がする。考えてもみれば、『この世にこうでなきゃいけないって事はない』ので、いくら"やるべき"と思っているフリをしても、心の底ではまぁやらなくてもいいかなと感じてしまっている。

 結局、この世で最も強い力は『そうなろうとする万有意思*1』なので、"やるべき"より"やりたい"の方が自分を動かすのに適している。後は自分が"やりたい"ことを知ればいい*2。例えば僕の場合、キャッチボールがしたい。

 習慣的にキャッチボールしてくれる相手はいないので、最近は草野球チームへの参加を検討している。スポーツとしての野球は全くできないが、昨今はサークル活動も多様化しており、非常にヌルい活動をしているチームもあるようだし、そこなら参加できるのではあるまいか。

 入団したあかつきには、運動不足だけでなく、"休日の引きこもり生活"も"非社交的な人格"も合わせて卒業することになりそうだ。良いことは一つの良いことで終わらないことが多い。

 

2018.03.18 T.N.

 

次回はテーマ【数学

南阿蘇のペンション

テーマ【ポール・マッカートニー


ビートルズは高校の頃からよく聴いていた。しかし、私がポールのソロ曲をちゃんと聴いたのは20歳のときである。当時、1週間かけて九州をひとり旅行していて、そのうちの一泊を熊本の南阿蘇で過ごした。この時に私はある一曲のポールの歌と出会った。
阿蘇といえば「南阿蘇水の生まれる里白水高原駅」という日本一長い駅名を思い付く方もいるだろう。空気が新鮮で水が綺麗なこの地で、私は木々に囲まれた白い洋風のペンションに泊まった。11月のオフシーズンだったこともあってか、宿泊客は自分ひとりだけであったのを覚えている。その日の空は厚い雲で覆われて、時より冷んやりとした空気が流れていた。宿で休んでいたら、近くに天体望遠鏡があることをオーナーが教えてくれた。あいにくの曇り空であったことは百も承知だったが、特にすることがなかった私はそこへ向かった。案の定、星はひとつも見えなかった。月よりも明るく見える木星ですら観測できなかった。結局何もせずにペンションへ戻る。
オーナーも自宅へ帰ってしまい、広い館にひとり取り残される形で一夜を過ごすことになる。ツインベッドの部屋だったが、贅沢感よりも、もの寂しさの方が強く感じた。ベッドとベッドの間に机があり、その上にはCDコンポが置かれていた。ということは、CDもどこかにあるだろう。そしたら、机の引き出しの中に数枚のCDを見つけた。聴いてみると、オーナーがセレクトした70年代〜80年代の有名な洋楽が入っていた。色々と流していたのだが、その中で特に印象に残った歌が一曲ある。それがポールマッカートニーの「No More Lonely Nights」だった。当時の心模様と相まって、この出来事は今でも強烈に覚えている。記憶と感情というのは密接にリンクしているんだなあ。
人というのは、いつの時も何かしらの孤独を抱えている。その克服の仕方は様々であろう。ただ、今の私たちは孤独との付き合い方が下手なような気がする。最近はSNSなどで常に誰とでもつながっているので、そもそも孤独を感じる場面は減ってきているのかもしれない。一方で、お金や時間を浪費することによって、その場限りの埋め合わせをしている人も散見する。その場合、結果的に依存してしまうのがオチであろう。本質的に人の持つ孤独というのは、その人自身が向き合うべきものなのかなと。そんなことを感じる今日この頃である。

 

2018.03.11 T.Y.

 

次回はテーマ【卒業】

牡蠣

テーマ【牡蠣】

 

最近めっきり、本を読んでいない。最後に読んだ本を思い出せないくらいに、読んでいない。何か読もう。何を読もうか。ああそうだ、牡蠣についての本を読もう。

タイトルは「森と山と日本人」という。山形大学で行われた、自然に関する識者の講義録で、農業や民俗学の専門家11人の講義が文字に起こされている。タイトルには「森と山」とあるが、この中にただ一人、云わば"海の人"がいた。本職は牡蠣の養殖、名前は畠山重篤さん。今回はその方から学んだことに対する読書感想文としたい。

 

一番重要で、一番感動したことを端的に言うと、森が豊かな海をつくるということだ。そうして、豊かな海で、おいしい牡蠣が育っていくという。順を追って理由を書くと、まず牡蠣の成長には植物プランクトンが必要だということ。次に、海で植物プランクトンが育つためには、その湾に栄養たっぷりの川が注ぎこむことが必要だということ。栄養たっぷりの川は、森林の腐葉土を通った水が、点滴のように川に注がれなければ決して存在しないということ。以上。こういう訳で、めぐり巡って『森が海を育てている』ということになる。畠山さんが代表を務めるNPO法人は、その名も「森は海の恋人」という。活動内容は、例えば山に登っての植樹。牡蠣の養殖家が植樹、という一見不自然なことの背景には、実は既述のような訳がある。

めぐり巡ってわが身のためとは良く言うが、世の中全てのことは至る所で密接に関係していて、(地理的に、または精神的に、はたまた政治的、学術的、その他いろいろ的に)どんなに遠くのことでも、すごい影響力を持っていたりする。そしてまた、怪我したところに絆創膏を貼るように、"そこだけ"で解決する問題ではないことが多くある。海を豊かにするためには、海を背にして山に登る必要があるように、普段向いている方とは別のところに答えがあったりする。例えばこの場合、どんなに海に深く潜っても、牡蠣の育ちが悪い原因は出てこない。そんな問題に直面したとき、余裕と遊びと、無意味と思っていた知識や出会いが役立つのだろうと思う。そう考えると、仕事でも趣味でもないのに、牡蠣についての本を読むということも、とても有意義じゃないか。

 

 

2018.03.06 T.N.

 

次回はテーマ【ポール・マッカートニー

大野市の醤油カツ丼

 テーマ【醤油】

 

ちょうど2月の三連休に福井へ旅行をした。福井県大野市は水道水のおいしい町で*1、その良質な水を生かした老舗の酒蔵や醤油屋が今でも続いている。そんな大野市発祥のB級グルメに「醤油カツ丼」というものがあった。福井のB級グルメソースカツ丼があるが、「醤油カツ丼」はそこから派生したものと考えていいだろう。カツ丼にしてはあっさりしてて、合わせて注文したとろろ蕎麦との相性もよくて美味であった。
一方で、「醤油カツ丼」の認知度はどれほどのものだろうか。レシピ元となったソースカツ丼ですら、福井名物として世間の市民権を得ているのかなんとも言えない。大野市は他にも「とんちゃん」というホルモン焼きも押していたが、地方を旅行してて思うのはこのようなB級グルメ、それとゆるキャラの多さである。きっと観光を盛り上げるためには欠かせなくなってきているのだろう。
話は変わるが、コインチェックで起きた仮想通貨流出からちょうど1ヶ月が経つ。この騒動の少しまえから仮想通貨界隈が騒がしくなってきたので、一冊の本を手に取っていたのだが、その作者がコインチェックの人だったのが興味深かった。本の中で「ビットコインは金(ゴールド)とよく似た資産」と書いてあったが、仮想通貨と言いながら通貨の体裁をなしていない今の状況では、バブルと揶揄されても仕方ない。友人は「人類史上最大の現金つかみ取り大会」と言っていたが、これはこれでなかなか的を射た表現だと思う。私自身、今は傍観している。
どのみち、この世の中は新しいものを次々と生み出し続けていかないといけないみたいだ。その意味では、隔週日曜でふたりが1本ずつ投稿しているこのブログについて、今回は更新を1週間飛ばしてしまった。私がノロウイルスにかかって、書く気力が失せてしまったからである。質の向上はもちろんだが、それ以前に更新そのものは最低限サボってはいけないと、この1週間で強く痛感した。自分の考えをカタチに残すことは、今の難しい世界でこれから生き残っていくのに必要な訓練になるはず。発信を続けることをやめてはいけない。

 

2018.02.25 T.Y.

次回はテーマ【牡蠣】 

パズル

テーマ【パズル】

 

身体を動かすと気持ちがいいように、頭も動かすと気持ちがいい、と思う。そしておそらく、身体を動かすと健康にいいように、頭も動かすと、心の健康に良く作用するだろう、と思う。別に精神の不健康を気にしてのことではないが、少し前からハマっているパズルがある。言葉遊びだ。

きっかけは、日本のhip-hopを聴くようになったこと。歌詞は、フォークやロックのそれよりも、韻にこだわっていることが多い。それを真似てみると、これがなかなか面白い。例えば「パズル(pAzUrU)」に対して「歩く(ArUkU)」が思いつく。言葉を見つけるだけでも楽しいのだけど、歌詞を作ろうとすると、より面白い。つまり、次は「パズル」と「歩く」を繋げる連想ゲームになる。しかも、『「歩く」を動詞活用させてはいけない』という縛り付きだ。雑だけど、一節作ってみると「家から駅までいつも歩く / 頭の中は言葉のパズル」という感じ。

最近は、三文字・四文字の韻が当初より簡単に思いつくようになってきて、もう一段階凝った遊びを考えた。押韻しながら折句*1を入れる、というのに挑戦しているが、これがどうにも難しい。折句というのは簡単に言うと「あいうえお作文」のようなもので、ネット世代には「縦読み」で通じるかもしれない。要は、行頭や行末など、文章のどこかに言葉を織り込むこと。意味が通るものにするだけでも一苦労なのに、文末で必ず"踏む"となるとかなり難しい。「パズル」でやるとしたら、(かなり苦しい出来だけど)「パンがないならお菓子を食べろ? / 頭痛がする。馬鹿王妃は辞めろ / ルイと一緒だ。ギロチンにかけろ」という感じ。

折句に限らず、使ってみたい技法はまだある。しりとりを取り入れても面白そうだし、漢詩の対句も真似られると思う。七五調で縛ってもいいし、季語を必ず入れるというのもいい。「何でもあり」も面白いが、ルールの中でなんとか工夫する、という面白さが遊びの醍醐味だと思う。難しい「縛り」に挑戦することで、楽しみながら頭を使って、心身共に健康でありたい。

 

2018.02.11 T.N.

 

次回はテーマ【醤油