ふたりブログ

毎回とあるテーマでつづります

思い出の一枚

 テーマ【思い出の一枚】

 
 はてなブログの機能のひとつに「お題スロット」なるものがあるので、それを利用した。『思い出の一枚』とのことなので、写真のことを思い浮かべたが、これという一枚があるわけではない。思い出深いものとして、高校生のとき、倫理の授業で書いた 原稿用紙一枚のレポートがあるので、それについて書こうと思う。
 その日の授業は自習で、1コマ 50分の間に、テーマに沿ってA4一枚のレポートを書きなさい、という課題だけが与えられていた。テーマは3つの中から選べたが、自分は「青年期の自己の確立」とかなんとか、そんな感じのものを選んだ。大人になっていくというのはどういうことなのか、青春らしい想いが自分にはあって、そのテーマを選んだのだと思う。書いた内容は、詳細まで思い出せないが、「ライ麦畑でつかまえて」という、当時はまり込んでいた小説を題材にして書いたのを覚えている。その小説を自分は熱狂的に支持していて、世界中に自分のような熱狂的ファンがいる人気作なので、興味のある方は調べてみて欲しい。誰に褒められたわけではないが、自分自身納得できる出来だったことは覚えている。50分で原稿用紙 1枚。自由度の高い内容であることを鑑みると、なかなか難しいことをやり遂げたと思う。
 比べて、今は2時間あっても悩んでばかりで書き進まない。原因は、何か。格好つけようとしているのかもしれない、情熱がないのかもしれない、言って良いことと悪いことを考えすぎているのかもしれない。もしくは、単に、怠けているのかも。
 いずれにしろ、昔できていたことが今できないと思うと、自分はあの頃から成長できていないのかもしれない。今日はいつも以上に意識して、勢いに任せて書いた。整っていないかもしれないが、嘘や脚色はない。今年は毎週ブログを更新する予定。少しずつでも、物を書ける人に近づければと思う。
 
2019. 1. 6 T.N.

アウシュビッツ強制収容所

お題「年末年始に見たもの・読んだもの」

テーマ【冬休み】

 

年始はアウシュビッツ強制収容所に行ってきた。それなりに心打たれたので、忘れないうちに感じたことをここに記す。

アウシュビッツは元々はドイツに反対したポーランド人を収容する場所だった。第一次世界大戦の賠償金に世界大恐慌が重なりダブルのストレスを追ったドイツはヒトラー政権発足後、ポーランドを侵攻。これが第二次世界大戦を引き起こす。最初はポーランド中のエリートを政治犯として刑務所へ送りこんでいたが、入りきらなくなったのでアウシュビッツ強制収容所を作った。のちにドイツがヨーロッパ中を占領していく中で、アウシュビッツでは多くのユダヤ人を虐殺することになる。

遺品や展示された資料から、強制収容所のなかの過酷な生活の一部を知ることができた。髪の毛を絨毯にしていたが、残った大量の髪が展示されていた。他にもメガネや靴、カバンなどの遺品も数え切れないほど展示されていた。義足義手が多く残っているのは、第一次世界大戦で負傷した影響だという。

建物も残されていて、レンガ作りや木造の小屋が広大な土地に、規則正しく建てられていた。そのいくつかに入ったが、およそ人が生活が出来るような場所ではなかった。しかし、そもそも75%のユダヤ人は収容所すら入らず、連行された途端にガス室に送り込まれて犠牲になっていた。この事実は自分にとっての一番の衝撃であって、決して忘れてはいけないと思った。

今回のガイドは日本人の方にお願いした。ガイドの方は説明をする際、徴用工をよく例に挙げてくれた。アウシュビッツの強制労働との共通点や相違点を通じて、私たちにこの問題ついて考えるきっかけをつくってくれた。博物館内に200人ほどいるガイドさんは、一部遺族の方もおられるが、実際に経験している人たちではない。「アウシュビッツで起きたことは、二度と起こしてはならない」という強いメッセージを、次の世代にどのように伝えるか。そのことについて、各ガイドさんはそれぞれ工夫を重ねながら案内をしている。

アウシュビッツでの出来事を他人ごとから自分ごとに捉えられたことは、今回の訪問での大きな成果である。人類史の本なんかを読んでいても、歴史的に他者を排除する習性を人間は持っていて、受け入れるよりも追い出す方が簡単だという。また、当事者になってしまうと、自分の立場以外のことを考えることは非常に難しい。ただ、昨今の急速なグローバル化によって、文化の違う人たちとの共存は避けられないし、大なり小なり似たような問題は必ず自分の身に降りかかる。その時に、中身を精査せずに多数派に入ろうとするような傍観者にならないよう、過去の歴史を学んでおく必要があると感じた。

 

2019.01.05 T.Y.

2019年の抱負

テーマ【2019年の抱負】
 
 抱負について考える。未来は現実になり得る。 だから「 ①現実にしたいと望むこと 」を、来年1年間の抱負としたい。 どんな抱負とするか、せっかくだ。思いつきで決めたくはない。未来は過去からの、そして今この瞬間からの延長に過ぎず、連続*1である。だから今年1年を振り返って、「②今年より良い年にするため」の抱負としたい。また、抱負はToDoではないと思う。メモ帳に書いておいて、終わったときに横線で消していくものではないと思う。「③1年間継続して心に留めておくこと」が適当だと思う。
 
 2018年を振り返って改善したいと思うのは、特に何もしていないしできていない、ということ。今年は、 特に何もしていないしできていない、という自覚がありながら、本当に何もしていない、ということを確認するのが怖くて、流れる日々の中で自分を省みることがなかった。うっすらと自覚がありながら、毎日変わらずだらだらとしていたのである。
 この問題の解決に、まず1つ、来年は日記を書きたいと思う。もちろん、結局「今日もいつも通りの日だった」という記録が365日続くことも考えられる。だが、少なくとも自分を省みる習慣をつければ、自らを奮い立たせるタイミングもあるだろうと思う。やらなければならないこと、やろうと思い立ったことを、心の底でわかっていながら、気付かないフリをしてだらだらする自分自身を、喰い止めるツールになってくれればよいのだが。
 解決のための第二に、時間をかけて、いや、時間に限らず、お金や手間も惜しまず、そういった諸々の"コスト"を費やして物事に取り組むようにしたい。"何にもせずだらだらしていた問題"の原因のひとつに、少しのコストを惜しんでいた気持ちがあると思う。具体的には、Cubaseのインストールにくじけてしまった。という思い出がある。元々音楽が好きなので、PCで楽曲制作ができるソフト(Cubaseというやつ)を使って作曲活動をしようと思っていたのだ。しかし電子機器の扱いが苦手なこともあり、うまくインストールできず、すっかりやる気をなくしてしまった。今冷静になって考えると、説明書とQ&Aをよく読んで、順番に問題を解決すれば難しいことではないはずだ。しかしその時は、楽器の練習でもなく、楽曲の作成それ自体でもないことに労力を割くことが、非常に大きな無駄に思えてしまい、結果、ほったらかしで、やろうと思っていたことは何もできていない。そして言わずもがな、「こんな面倒なことするぐらいならギターの練習した方がいいや」と思って投げ出したにも関わらず、その時間をギター練習にあてたわけでもないのである。  簡単にできるならその方がいいし、無駄や遠回りを美徳にしようとは思っていない。ただ、飛び越せる高さのハードルを面倒に思って、平坦な道を行こうとすると、結局どこも行けずにずっと今居る場所に……という恐ろしい結末を考えてしまう。僕のような怠け者は、「どんなことでも楽にはできないんだから頑張ろう」くらいの心構えでいた方がよさそうだ。やってみて無駄があったら、次から直せばいい。それこそ日記にでも書いて覚えておこう。とにかく、やりもせず現状に留まるのは御免だ。
 
抱負1:日記を書く(1日を省みる)
抱負2:コスト(時間やお金や手間などなど)を費やして取り組む
 
 私は適度に息抜きをしつつ、そしてそれが"適度"から"過剰"にならないよう注意しつつ、私なりに頑張ります。
 皆様もよいお年を。
 
2018.12.30 T.N.

*1:微分可能

ベローチェにて

テーマ【総括と抱負】

 

2018年を振り返ると、色々とチャレンジをした気がする。5月にはスペイン巡礼でサリアから114km歩いた。7月には屋久島でオープンウォーターを1km完泳した。8月には人生初のアフリカでモロッコに行ったし、そのあとはウクレレの発表会に向けて練習に力を入れた。発表会終わった翌週には、六甲全山縦走大会に参加して56kmを須磨浦公園から宝塚までひたすら歩いた。また、本も50冊ほど読んだ。

面白そうだと思ったら、とりあえず手を出して飛び込んだ結果、今年は実に様々なことをやってきた。その中でぼんやりと感じたのは、「自分に課して成し遂げること、他人に与えて貢献すること」が、自分の生きる喜びになるのではないかということだ。前述したように、私が2018年で記憶に残ったものは、いつもより少し頑張ることで達成感を得たものだ。「自分に課して成し遂げる」方はこのまま継続していき、2019年は後者の「他人に与えて貢献する」方にも力を入れていきたい。

今日はこのブログをやっている相方と、一緒に公園でサッカーをした。私は経験者で指導の資格を持っているのだが、まだ初心者の相方に、蹴り方の基本的なコツを教えながらパス交換をしたら、みるみる上手くなっていった。

それと、2月に友人の結婚式のお手伝いを頼まれている。詳細はここでは差し控えるが、内容的に今までの人生経験を生かすことができるはず。あくまで主役は新郎新婦だということは忘れずに、自分は花を添えるカタチで、彼らが立派に結婚式を挙げることができたらいいなと思う。

相手が喜んでくれると、当然だがこちらも嬉しくなる。また、伝える為には、そのことについてより深く学んでおく必要もあるので、自分の成長にも繋がる。このように、まずは身近な相手に対して自分の持っている知識を活用してあげたい。

最終的には、自分の持つ知識やイメージを、言葉という手段を介在して、名前も知らない相手にも伝えられたらもっといいなと思う。その領域に達するためには、アウトプットの量と質が圧倒的に足りていない。そこで2018年で唯一の心残りである、このブログをもっと有効に活用することも2019年の抱負にしたい。

2019年は毎週を目標に、最低でも30回は投稿できれば。まずは思ったことを書くという習慣付けをすることから。例えば毎週60分を「ブログの時間」と称して、カフェに行って集中して書いてみるのもいいかもしれない。早速、今もカフェで相方を目の前にしてこのブログを書いている。周りからは異様な光景かもしれないが、お互いかなり集中した良い状態でここまで40分が経過した。相方がいるおかげでモチベーションになっている部分はかなり大きい。

カフェで書きながら思ったこととして、ブログ更新は「自分に課す」ことにも「他人に与える」ことにも通ずるものがありそうだ。そうやってブログを更新していきながら、自分の思ったことや伝えたいことを発信するスキルを磨いていきたい。いまのこの集中力を忘れずに、この「ふたりブログ」が飛躍できる年になれたらいいなと思う。

 

2018.12.30 T.Y

 

DENIM GALLERY

テーマ【デニム】


UESというデニム製品を扱っているブランドがあって、私は何年も前からひいきにさせていただいている。そこがJR大阪駅ルクアイーレ8Fに期間限定でブースを出していて、色落ちデニムの展示を行なっている。色落ちデニムは実際の使用者から預かり、着用年数と洗濯回数が記載されたタグを付けて並べてある。先日足を運んでみたが、自分が渡したジーンズも2本飾ってあった。

1本目は、4年前に購入したものである。もともと屋久島へ旅行したかったのだが、台風で流れてしまった。連休中で特にすることがなかったので、以前から気になっていたそのお店へ行った。その時は、レギュラータイプのジーンズを試着して購入した。2本目は、1年前に購入したものである。もともと登山へ行きたかったのだが、これまた台風直撃で中止になった。やはりすることがなかったので、以前もこんなことがあったなと思い、何気なくお店へ行った。店員さんと会話が弾み、気が付いたらスリムタイプのジーンズを試着して購入していた。今はこの2本目をほぼ毎日履いている。色も少しずつ落ちてきて、だんだん自分の足に合ってアタリが出てきて、味わい深くなっていく。1年前に撮った新品の写真と見比べると差ははっきりとわかってきた。それが楽しくなってきてもっと履きこむ。

話はかわるが、先週「日日是好日」という映画を見てきた。主人公がお茶の稽古に24年間通い続けたという内容である。あとで原作の本を読んだのだが、映画の中でも最も印象に残った一節を引用する。「世の中には、『すぐわかるもの』と、『すぐにはわからないもの 』の二種類がある。すぐわかるものは、一度通り過ぎればそれでいい。けれど、すぐにわからないものは、フェリーニの『道』のように何度か行ったり来たりするうちに、後になって少しずつじわじわとわかりだし、別ものに変わっていく。」

このブログも密かに「役立たずの教養」をポリシーにしている部分がある。「すぐに役に立たないこと」も、どこかで「役に立つこと」に変わっていくのだろうか。そのためには少なくとも長い時間をかける必要がありそうだ。ふたりブログもデニムと同じように、長く育てていけたらいいなと思っている。

 

2018.10.28 T.Y.

障がい者サッカー

テーマ【研修】

 

この週末は障がい者サッカーの研修会に参加した。そのことを備忘録として書く。

今は特段サッカーの指導をしているわけでもないが、サッカーとフットサルの指導者資格は持っていて、元々日本サッカーへの関心は高い。また、ブラインドサッカー日本代表の方の講演会を聴いたり、周りで障がい者サッカーの支援をされている方がいたりして、障がい者サッカーにも興味を持っていた。同じサッカーといえども、障がい者サッカーについては知らない部分が多いので、新たな気付きや学びが得られたらと思い今回参加した。

研修は2日間にかけて行われ、内容は講義と実技が半分半分だった。

講義では、一方方向ではなく対話形式で行われたのが印象的であった。最初は、なぜサッカーをするのかについて、グループで理由を書き出し、次になぜ障がい者はサッカーするのかについて、同じように書き出した。そこでふたつを見比べると、ほとんど同じだということを再認識した。さらにそこから発展させて、サッカーをする理由や目的は、テクニカル、フィジカル、心理、社会の4側面に分類できることを学んだ。その他にもいくつかグループディスカッションを通じて自由に意見を出し合った。

実技では、1日目はインストラクターがコーチになって、健常者の中に障がい者をどう巻き込むかのトレーニングをいくつか行った。「サッカーでサッカーを学ぶ」という試みは新鮮だった。2日目はグループごとにプランニングの課題が与えられた。実際に自分たちでトレーニングをオーガナイズして、コーチ役になって実践することによって、難しさや課題が浮き彫りになった。例えば、聴覚障害のある選手がいる場合は、選手の真正面に立ってトレーニングの説明をしてあげたり、ホワイトボードを使ったりして褒めてあげたりとか、そういった配慮が必要であった。

2日間の研修を通じて、個々の相手に合わせた対応をすることにより、サッカーはどなたでも楽しめることがわかった。障がい者という観点でいえば、安全についてはより一層の配慮は求められるだろう。しかし、あくまでもサッカーの技術を教えるという本質は変えずに。障がい者に遠慮するのではなく、全員が積極的に取り組めることが大切である。

また、健常者にも障がい者にも当てはまる共通項というのは、サッカーの本質なのではないかと感じた。たとえば、サッカーをする理由は「楽しいから」「勝ちたいから」「上手くなりたいから」ということに変わりはない。指導においても、基本的なコミュニケーションスキルが必要なのはどちらにも言えることである。

サッカーを通じて障がい者QOLを高めていく活動には、これからも関わっていきたい。

 

2018.10.21 T.Y.

リフティング

テーマ【コツ】

 

 2018W杯以来、サッカーに興味を持っている。自分でやってみたくなって、先週、サッカーボールを買った。リフティングに挑戦してみると、2回できた。そんな人間がいるのかと思う人もいるかもしれないが、世の中運動の苦手なタイプは存在するものである。彼らは多くの場合、苦手なことを積極的にやりはしないので、貴方たちも彼らが運動する様子を見る機会はない。しかし仮にそんな機会があったら、リフティングが2回こっきりしかできない人間もいることに気付くだろう。最初に蹴って、もう1度ボールに触るのが精一杯なのだ。

 20分の練習で最高4回という記録に伸びたとはいえ、まだまだ上達したい。その後の日々でぼんやりと考えて、思い至ったことがある。得意なギターを弾くように*1、リフティングができないだろうか、と。感覚的に、近しいものを感じたのである。

 ギターは、両手で弾く。弦を押える手と、弦をはじく手で役割分担をするわけだが、『ギターが弾けます』と人に言えるようになるには、弦を押える左手の動きが重要に思う。始めたばかりの頃は力いっぱいに弦をおさえて、指は痛いし、変なところに力が入っているせいで、腕も肩も、関係ないところまで痛くなったものだ。それでも、練習を繰り返すうち、力の入れ方というものがわかってくる。曲の中のあるべきリズムで、押えるべきポイントを、ふさわしい力で押える。余計な力を入れることもなくなって、長くギターを弾いても苦痛でなくなってくる。"力を入れる"という表現は的確ではないかもしれないが、要所(ツボ)を押さえるというか、所謂、"コツ"というのが、どんな分野にでもあるのだと思う。

 ギターの弦を押えるように、リズムを持って、蹴るべき場所を、ふさわしい力で蹴れば、ボールは真上にあがってくれるんじゃないだろうか。そんなことを考えながら、今日、1週間ぶりにリフティングに挑戦した。しばらく練習して、一番長く続いたのが 8回だった。コツが掴めたとは思えないが、うまく蹴れたと実感できるタイミングが何度かあって、楽しい。先週のブログにもあったが、量はひとりでに質になる。いずれコツを掴めるように、いろんなことを、コツコツと続けられたらな、と思う次第です。

 

2018.10.20 T.N.

*1:私は学生時代に始めて以来、今でもしばしばギターを弾く