ふたりブログ

毎回とあるテーマでつづります

「中身と形式」を読んで

テーマ【中身と形式】


講談社学術文庫に「私の個人主義」という本がある。著者は夏目漱石。といっても、漱石が直接書いた本ではなく、彼の講演が5本収録されたものである。掲題の「私の個人主義」をはじめ、「道楽と職業」「現代日本の開化」「中身と形式」「文芸と道徳」のどれをとっても、100年以上前の講演とは考えられないほど今の世の中に通ずることが多い。今回はその中から「中身と形式」の一部を抜粋する。

 

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「物の内容を知り尽くした人間、中身の内に生息している人間はそれほど形式に拘泥しないし、また無理な形式を喜ばない傾があるが、門外漢になると中味が分らなくってもとにかく形式だけは知りたがる、そうして形式がいかにその物を現すに不適当であっても何でも構わずに一種の智識として尊重する事になる」

「形式は内容のための形式であって、形式のために内容ができるのではない」

「元来この型そのものが、何のために存在の権利を持っているかというと、前にもお話した通り内容実質を内面の生活上経験することが出来ないにもかかわらずどうでも纏めて一括りにしておきたいという念に外ならんので、会社の決算とか学校の点数と同じように表の上で早呑込をする一種の智識欲、もしくは実際上の便宜のために外ならんのですから、厳密な意味でいうと、型自身が独立して自然に存在するわけのものではない。(中略)変化のある人間というものは、そう一定不変の型で支配されるはずがない。(中略)種々の変化を受ける以上は、時と場合に応じて無理のない型を拵えてやらなければ到底此方の要求通りに運ぶわけのものではない。」

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以前から、仕事でもメールを捌くのが業務の中心になっていたり、普段の会話でもチャットで済ませていたりと感じていた。そこに昨今の状況も相まって、テキストによる表現が一層影響力を強めてきた。上の文章に当てはめた場合、テキストが形式だとすると、その人の考えが中身に当たるのかなと思う。中身の人間は状況次第で変化しうる一方、テキストとしての言葉はその場から残る。残った言葉がひとり歩きして、その人の考えていない文脈まで広がっているような場面はないだろうか。もちろん、このブログでも言葉の選択には一層気をつけなければならないし、今は書くことでその訓練をしていると言ってもいい。

同様のことがシステム開発や仕組みづくりについても言えて、あくまでもプロセスが先でシステムやルールが作られるのに、既存のシステムやルールが先行して運用を邪魔しているようなこともある。往々にして、初期段階で内容が全然固まっていなかったとか、自分たちのやっていることが説明できなかったとかに問題があるのだが、わかった時点で都度変えていけばそれでいいと思う。それなのに、過去を否定できずズルズルと残している結果、それこそ「カタチ」だけの業務に追われていることも多い。

リモートの環境になってきたり、物事そのものが複雑化してきたりして、中身全体を捉えることがだんだんと難しくなってきた。それでも、目に見えるカタチに囚われず、本質を掴むことを心がけたい。また、形式や型にしても白黒ハッキリ*1ではなく状況に合わせられるように、ブレーキの「あそび」のようなものがあったっていいと思う。余裕を持たせるだけの心のゆとりこそが、困難な状況を乗り切るうえで今の自分たちに求められている気がする。

 

PS: 私の書いた2本目の投稿*2に、奇しくも漱石のパロディで同じことを言っているのに気がついたので、追記しておく。

2020.04.25 T.Y.