ふたりブログ

毎回とあるテーマでつづります

出国直前

テーマ【雨】

平成最後の日は雨らしい。いまから海外旅行へ向かうのだが、日本は雨だし、行き先も雨らしい。迂闊なことに折りたたみ傘を持ってくるのを忘れてしまった。現地調達で済ませようと思う。

自他ともに認める雨男である。だいたいの旅行先では雨が多い印象が拭えない。今年だけでいうと、年始に行ったポーランドも初日は雨、沖縄に行った時も雨、福島も雨だった。だいたいひとり旅では雨なので、一緒に行く人がいたら、その人のパワーで晴れにしてもらっている。ここ最近のひとり旅で晴れたのはモロッコ。さすがの私でも砂漠に雨を降らせることはなかった。

富山に3年半住んでいたが、日本海側では曇りも晴れだと言っていた。雨や雪が降っていなければ、晴れと言いたくなる気持ちは分からなくもない。たしかに毎日どんよりした天気は精神的にこたえる。引っ越して来て最初に訪れた冬は、高気圧を求めに東京へ行ったこともあった。日本海側の人は忍耐強い傾向があるそうだが、厳しい天候の影響からそう言われるのだろう。

悪天候に限らず旅ではトラブルに遭遇しがちである。今回は最初の飛行機が遅延してしまい、次の飛行機への乗り継ぎ時間が規定の時間を下回ってしまった。ただおかげさまで、最初の飛行機を最前列の良い席に変更してもらったり、係員付き添いで出国手続きまでスムーズに繋いでくれたり、なかなか無い経験をさせてもらった。いかに今の状況を全力で楽しむことができるか。そのためには準備を怠らず、最善の選択を繰り返す。旅に限らず、あらゆる物事に言えることだろう。


2019.04.29 T.Y.

東北へ行った話

テーマ【平成を振り返る】

テレビを点けると識者たちがしきりに平成を振り返っている。それぞれの優劣は他の方たちに譲るとしても、やはり東日本大震災だけは避けては通れないだろう。私は今年の2月に福島、4月に気仙沼へ行った。そこで感じたことをそれぞれ書こうと思う。

知人を訪ねて福島へ行ったのは2月の三連休のことだった。知人とは一緒に東京電力廃炉資料館を見学した。ここは震災で起きてしまった福島の原発事故を振り返り、事故原因と廃炉事業の報告を目的とした施設。事象を説明して、問題点を整理して、根本原因を探り、対策を講じる。いわば始末書のお手本を見せられたようであった。展示内容は非常にわかりやすく本当にオススメである。福島の事故に興味のある方は是非一度立ち寄っていただきたい。

廃炉資料館は福島第一原子力発電所からおよそ10kmほど離れたところにある。辺りは帰宅困難区域にあるので、一般車両は南北に連なる国道6号線のみ通行可能で、交差点の両脇では常に警備員が見張っている。建物は震災当時のままで、片付けすら行われていない状態だった。車のディーラーであったであろうお店も窓ガラスが割られっぱなし、天井板もむき出しで配線が垂れっぱなし。およそ8年が経ったとは思えないほどそのままで驚愕した。知人いわく、人がいないとわかって猿や猪がすみかにしているらしい。この現状は実際に行ってみないと分からなかったことであった。

一方、気仙沼に行ったのは4月7日の日曜日。その日15時に開通した「気仙沼大島大橋」を渡るためだけに、友人と日帰りで行ってきた。気仙沼には行ったのは震災後から数えて3回目。2年前に訪れたときには橋桁が完成したところだった。この橋によって本土と繫がった気仙沼大島は、本土からわずか数百メートルしか離れていないのだが、今まではフェリーでしか行けることが出来なかった。橋を架ける計画は元々あったらしいのだが、決断したきっかけはやはり東日本大震災津波で船が流されてしまい、この東北地方最大の有人島は孤立してしまったのである。

気仙沼大島には休暇村という宿泊施設があり、2年前は実際に泊まりに行った。海鮮が美味しくて、特にワカメが分厚くて印象的だった。今回は日帰りといえど、大島でも何かできればと思ったが、道路が大渋滞に合う。市街地から橋の手前まで本来なら15分で行けるはずなのに、1時間もかかってしまった。帰りの仙台空港最終便に間に合わなくなるため、橋を渡ったらすぐにUターンをしてもう一度橋を渡って戻り、泣く泣く仙台へ向かったのだった。激しい後悔と同時に、周りの関心度の高さが知れた。気仙沼には近いうちにリベンジしたい。

 

2019.04.28 T.Y.

 

 

大型連休を迎えるにあたって

テーマ【近況】

最大10連休のGWに入った。類に漏れず私も10連休だ。それどころか、火曜まで休むつもりである。自分の裁量で休みが取れるということは、比較的恵まれた職場だ。

3月〜4月は人生で1番と言っていいほど、本当によく働いた。とくに今月はほぼ毎日の終業が22時を回っていたほど。吉高由里子主演ドラマ*1の視聴率が高かったことを考えると、世間の流れから逆らってる感は否めない。一方で、働き続けることにそこまでストレスを感じていないのも事実。ある程度自分の好きなように仕事をさせてもらっているのもあるのだろう。家と職場の往復で無味ではあるが、自身では充実した日々を過ごしている。

業務範囲が広いため、他部署のさまざまな人たちと調整をすることが多い。人材を人財と当てる企業もあるように、私も「会社は人」だと思っている。相手がどのような為人なのかを見極めることは常に心がけている。例えばこんなことがあった。「G課長は昨日飲み会行ってたから」という理由で、G課長の緊急依頼を断るW課長がいたから、私がW課長をなだめて承認をお願いしに行ったり。(それはなんと無駄だったことか。)緊急の依頼をしたG課長も、個人的な理由で断ったW課長も、余裕がなくて自分のことしか考えてないのだろう。全体を俯瞰して誰かが横串を刺してあげないといけない。

定常業務と他にプロジェクトも兼務していることが、私をより忙しくさせている。このプロジェクトは私にとって今までにないほどのチャレンジなので、やりがいは非常に大きい。このプロジェクトのヘッドと昨日ばったり会ったので食事をご一緒させていただいた。彼が言ってたなかで印象的だったのが「人たらしであれ」ということ。年齢も国籍も違う多くの人たちを同じ方向に動かすためには必要だと仰っていた。その器の大きさは見習わなければならない。

また、昨日はプロジェクトのキーパーソンともお話する機会があった。その方はすべてのデータ整備を統括している偉い方なので、担当者の自分はその方とこれまではあまり接点がなかった。ものすごくアツい方でして、業界全体を変えたいという強い思いを語ってくれた。現状に文句を言うのではなく、先を見て変化していこうという姿勢にものすごく共感した。先ほどのヘッドもそうであったが、2人とも物事をポジティブに捉えている。だから一緒にお話するだけで、自然とモチベーションが上がる。

先行きの見えない未来に悲観的な意見も散見するが、私個人としては、まだまだこの世の中も捨てたものではないと思っている。

 

2019.04.27 T.Y.

お喋りの有効性

テーマ【息抜き】

 非社交的なタイプだ。職場ではあまり雑談しない。弱点のひとつなのだが、変なところでかなり頭が固く、為すべきでないことは為すべきでないと考えてしまう節がある。(民間企業に勤めてはいるものの、性格的には軍隊かお役所が似合ってるんじゃないかと思うことがある。)常に固く口を結んでいるという訳ではないし、そりゃもちろん、話掛けられたら愛想良く応えはするのだけど、自分からお喋りすることはまずない。自然と、黙々と仕事をこなすことになる。

 最近は期末で忙しく、より一層黙って仕事をすることになった。あれもこれもやらなきゃいけないし、この仕事が金曜日までに片付かないと土日が休日になるかどうか……という気持ちで目の前のタスクと闘っているので、まず誰かと笑い合うことはない。口を開くと出てくる言葉と言えば「あ!(れもやっとかなきゃいけなかったんだった……)」くらいである。セゾンCTOの小野さんが徹夜をしてはいけない理由*1という記事を書いているが、少しそれに似た精神状態だったかなと思う。徹夜こそしていないが、忙しい忙しいという気持ちを一人で抱えていると、ピリピリがイライラになってくる。

 何がきっかけだったか、たぶん夜遅く、課のシマに隣席の先輩と自分だけという、逆に何か喋りでもしないと気まずいような状態になったからだと思うが、ちょっとだけ、雑談した日があった。最近気になったニュース、来年度のチームのこと、結構前に行ってきた外部セミナーで面白かったこと。時間にしたら短い間だったと思うし、お互いPCをカタカタと打って仕事しながらの会話ではあったが、そのほんの少しで、かなりリラックスできた感覚があった。別に仕事がなくなったわけではないが、どんどん悪化していきそうだった精神の健康が、どうにか保たれたような気がしたのである。

 何が言いたいかといえば、ちょっとしたお喋りがかなり効果的な息抜きになって、ぴりぴりと緊張していた神経が多少リラックスできた、というお話に過ぎない。多くの人にとっては言われるまでもないことかとは思う。とはいえ、閉塞的な気分になっていたのがふっと軽くなるような実感があったので、せっかくなのでここに記録した次第です。

 

2019.03.28 T.N.

プラネタリウム

テーマ【プラネタリウム

   先日、池袋でプラネタリウムを楽しんできた。
 公式HPでは、サンシャインシティのビル屋上にあることになっているが、プラネタリウム自体は建物の中にあるので、屋上というよりはビル最上階と言った方がしっくりくる。受付で、いくつかあるプログラムのうち、"南極ヒーリング"のチケットを買って、上映までロビーで待つ。開始時間が近付いて、いよいよあの天球の中に入ったのだけど、これが思いの外小さい。子供の頃の記憶では、別世界に招待されたような気分だったのに、背が伸びたのか、感受性が縮んだのか、こんなもんだっけ、という印象。ともあれ席に座って、ついに上映。
 結果として、かなり楽しめた。『上映中に2回腕時計を見たら糞映画』と聞いたことがあるが、1時間弱の上映中、時間が気にならなかった。内容はタイトル通り、南極の星空がメインとして映し出され、星座の解説のようなナレーションが入る。いくつか面白いと思えることがあったので、覚えている範囲で挙げると、


・天の川の中 、南十字星の近く、不自然に真っ暗な部分がある。これはコールサックと呼ばれるガスや塵などで、星を覆ってしまっているのだそうだ
北極星はあっても南極星はないらしい。大航海時代の船乗りは、代わりに南十字星を星標に方位を知ったとのこと
・その南十字星だがなかなか見付かりにくい。ヒントになるのがケンタウルス座の前脚(に該当する明るい星)だそうな


という感じ。こんな天体雑学を聴きながら星空を眺めていると、気付いたら時間が過ぎていた。
 振り返って思うのは、なかなかロマンチックな体験だったなということ。京都でもローマでも、"昔のまま"を売りにした名所があると思うが、星ほど変わってないものもないだろう。なにせ言葉通りの意味で『天文学的な』年月を経て変わっていくので、"先週"と"千年前"に大した違いがない。昔話に残っている星と、同じものを見ることができるのだ。そして逆に遥か遠い未来についても同じことが言える。自分が死んでしまった後に生まれる知らない誰かも、今日と同じ星*1を眺めるのである。
 そうとわかれば、作り物ではなく本物をみてみようと思ったが、生憎東京の夜空は星が見えにくい。どこかで休みをとって星の見えるところまで行ってみよう。"来週"でも"十年後"でもいいけど、少なくとも自分の生きているうちに。

 

2019.03.03 T.N.

*1:文章の流れを切りたくなかったので注釈で言うが、厳密には『"ほぼ"同じ』

Spread Your Wings

テーマ【最近読んだ本】

 

「仕事論」という本を読んだ。「水曜どうでしょう」というテレビ番組を作ったディレクター2人の対談本である。「水曜どうでしょう」は北海道ローカルで20年以上前に放送された番組にも関わらず、いまでも全国的にファンがいて、番組DVDの売上が450万枚という驚異的なコンテンツである。「仕事論」には、そんなTVディレクターとして十分すぎる結果を残した2人の、仕事についての考え方が盛り込まれていて非常に興味深かった。対談を読んでいると、彼らは主体的に働くことや現場最前線で考えることをとくに重視しているように思えた。それは嬉野Dの「現場で働く人間が意志を持って働きやすい環境を勝手につくっていけば、そして一人ひとりが自分の頭で考えて仕事を楽しいものにしていこうと判断すれば、いつか会社全体の雰囲気も良くなっていく。」という一文にも集約されている。

わたくしごとになるが、最近仕事で頼まれたり手助けする事が増えた。「頼まれごとは試されごと」を仕事のモットーにしているので、それが自分の業務と関係ないことでもなるべく応えようと心がけている。たしかに組織である以上、担当と責任区分が存在するのはわかる。しかし、「それは私の担当ではありません」と決まり文句で逃げるのは個人的に好まない。代わりにその状況で考えるのは「この人はなぜ自分に頼んだのだろう」ということ。もし私に聞くことが間違いであっても、相手のわかっていない点はどこにあるかを探りたい。それが今の仕事を進める上では直接関係ないことかもしれない。しかし経験則で言えば、それを知っておいても損はなく、むしろどこかで役に立ったりする場合もある。

「仕事論」の最後はこう締めくくられている。「自分の本性に従って生きはじめると、自分が成果を出すために、やらねばならないことがどんどん具体的に思い付けるようになる。だから、自由を感じるんじゃないのかなと、私は思うのです。」本性を磨くことは忘れずに、いつも自分の気持ちには正直でありたい。


※タイトルはqueenの同曲名から。サビの歌詞にインスパイアされて付けました。

 

2019.02.23 T.Y.

所感(書いてみて)

テーマ【書いてみて思ったこと】

 

 1年以上このブログを続けてきて、 毎度書きながら、"自分自身の考えがよくわからない"という気持ちと向き合っている。たしかに"こんなようなことを書きたい"という思いがあって書き始めたはずなのに、 明確に言語化していく中で、全く繋がりのないエピソードが出てきたり、明らかな矛盾があったり、気付くと違う話をしていたりして、何が言いたかったんだっけ?と一人で迷い込むことがある。自覚としてはガチガチの理系脳なので、論理には自信があったのだが、蓋を開けてみると、案外抽象的に物事を捉えていたことに気付かされる。ふわっとした意見から、 比較的はっきりとしたものを見つけ出し、それをひとつの記事にどうにかまとめてきた。そんな中で最近気付いたのだが、結論は書き始めたときの思いと異なることが多い。
 具体的には、例えば前回の記事。元々は"ニュースのさばき方"というタイトルで、「最近情報の取捨選択がうまくなってきたんです」という論を展開しようと思ったのだが、自分の考えと向き合ってみると、そんなことが言いたいのではない気がしてきて、紆余曲折の上できた記事は、ニュースから得られる知識の重要性を語るものだった。後から思うと、元々のぼやっとした気持ちより、結果としてブログに書いたものの方が、自分自身の意見により近いと確信している。こういったことは、実際に書いてみないとわからない。
 何が言いたいかというと、"経験"でも" 学習"でも、インプットだけでは、意外と自分のものになっていない。アウトプットすることで、深いところに落とし込めるということがあると思う。中高生のときによく言われた、"誰かに教えてあげると、相手以上に自分自身の勉強になるよ"というやつに似てる。このブログでは方程式も歴史年号も取り扱う機会は少ないが、"なんとなく思ったこと"や"ぼんやりと感じたこと"を、一つずつ、自分のものにしていきたい。

 

2019.02.17 T.N.